★感傷のグラマー★


大好評のボヘミアンラプソディー。評判通りの素晴らしい映画だとわかるのに(楽曲や演技など)、結果的に心が動かず、そんな自分自身を「残念」と思った。「グラマー」読みすぎたかなぁ…。

この映画に限らず、最近は映画をみると「このグラマーを発動させるかぁ!」とか「このグラマーをまき散らしてどうすんだろ」など、映画制作側のグラマーを感じて、心が苦しくなることが多い。ストーリーに集中しても、主人公がグラマーまみれだと、「だいじょうぶか!」と、お節介おばさんの心境になる。映画ファンなのに…。グラマーに気づくってやっかいだなぁー。映画に入り込めないし、楽しめない(笑)

映画で一番多いのは「感傷のグラマー」かもしれない。これは「美しい」からこそ、様々な映画で涙を誘う。昨日紹介した物質主義のグラマーより、この感傷のグラマーは根強い。

つい私はグラマーを「悪い」と批判しそうになるけど、それを「ある」と認めたうえで、その次の進化へと向かうよう、どう手助けしたらよいのか?…を考えたい。弟子が働くのは、このグラマーでまみれたアストラルの戦場。グラマーだと分かっていても、弟子はそこでグラマーの消散のために働かなくてはならない。

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感傷のグラマーは世界の善良な人々を虜にし、情緒的な反応の濃密な霧の中に封じ込めている。…感傷のグラマーにまだ完全に包み込まれている自称愛他者や奉仕者に対して温和で心地よい特性を示すことで、同じような反応を返してほしいという感傷や欲求の周りに、感傷の原因になる多くのものが集まる。

例えば夫や妻や親と子供の間に存在するような多くの人間関係の特徴は、愛と奉仕の理論に第一に基づいたこのような疑似的な愛である。彼らに対する感傷に幻惑され、本来自由であり他の人々も自由にさせる魂の愛についてはほとんど知らない。そのため彼らは濃い霧のなかを彷徨い、情愛の反応を引き出すためにしばしば彼らが奉仕したいと望む人々を無理やり引きずり回す。「情愛」という言葉について研究しなさい。我が兄弟よ。その真の意味を知りなさい。 情愛は愛ではない。それは私たちがアストラル体の発情を通して表現する欲求であり、この活動が私たちの接触に影響を与えている。それは、分離した自我のためになにも求めない魂の自然な無欲ではない。この感傷のグラマーが世界の親切な人々すべてを束縛し狼狽さえ、存在しない義務を課し、やがて真の非利己的な愛の流入によって消散されなければならないグラマーを生み出していく。
引用:グラマーより

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